わからないということ
Twitterをしていて楽しいことのひとつに、普段は知り得ないはずの人の呟きを見ることにある。
海外に住む人、地方で子育てをする人、大都市で働く人。
年齢も、住む場所も、収入も、幸せも、抱えている悩みも、全くバラバラの人たち。
どこまで本当で、どこまで嘘かはわからない、SNS上に流れる膨大な言葉の連なり。
統一されたフォントで並ぶ言葉からは、不思議と多種多様な手触りが伝わってくる。
書かれている内容は理解できることもできないこともあって、感動したり嫌悪することも混ざっていて、そのごちゃまぜの感じが面白くて、Twitterを何年も気ままに眺めている。
いつ思うのは、「人は、私が想像も及ばない世界を内包している」ということ。
人は他人のことを自分が見える範囲で判断してしまいやすい。
この人はああいう人。あの人はこういう人。
勝手にラベルを貼って、項目分けをする。
でも、人間はそんなにシンプルな作りをしていない。
いつも元気なあの人が、実は何年も大きな病と闘っている。
言葉のキツイあの人が、実は誰よりも繊細だったり。
優しさも残酷さも、光の当たり具合によって、その日の気分の違いによってさえ、出方が違う。
多面的で、多層的で、奥行きがある。
目の前の人の、私が見えている部分はほんの少しの部分である、という事実を、心のどこかに持っていなければいけないと常に思う。
近しい人であっても、全てを理解できるわけではない。
見えていない部分への想像力。
わからない余白があるということ。
「わからない」ということはとても大切だ。
自分の想像が及ばない世界があるという事実を知ることは、謙虚さに繋がる。
謙虚さは、敬意を生む。
想像力と敬意。
それが、人と付き合うときに大切にすべきことだと思う。