白い猫の来た道

日々つれづれ

何も考えない時間を作る

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気になることや悩み事があると際限なく考え続けてしまう性質だ。
なので、食事をしているときはできるだけ考えず、食べることに集中すると決めた。


私は3食を自宅で食べることがほとんどで、自炊が多い。
その時に家にある食材、体調や食べたいもの、気分によって、何を食べるか決める。
たくさん作って何日かに分けて食べることも多い。
調理方法はできるだけ簡単に、でも、できるだけ美味しくて嬉しくなるものを真剣に考える。
食べるときは、一口一口味わうように心掛ける。考え事をしていると、あっという間に食べてしまうから。


それを続けていたら、食事の時間が自分のリズムを整えるポイントになってきた。
考え事も一旦そこで小休止することによって煮詰まることを防げている(ような気がする)。


まだまだ食べながら考え続けていることがあるので、もう少し目の前の食事に没頭できたらいいな。


何も考えない時間を1日の中でどれくらい作るかって、実はとても大事なことのように思う。

5月が終わりますよ

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5月が終わる終わる。


みなぎるやる気などを出して動くと息切れすることがわかりました。
のんびり、ゆっくりてくてくと行きます。


自分で楽しみを見つけていけたのはよかったな。


もっとシンプルになってみたい。


6月も、楽しいこと、美しいこと、ひりひりするような感動を。

やりたいこと

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私はやりたいことや行きたいところ、読みたい本を書いてリストにしているのですが、先日改めてそれらを見返してみて、一生のうちに全部叶えるのは難しいということに愕然としました。


いや、薄々気づいてはいたんですよ。
本のリストは数百冊ですし。読むペースより読みたい本が増えて行くペースの方が明らかに早いんですから。


でも、叶ったらいいなあとか、行けたらいいなあとか、望みをぼんやり考えているだけではどうも駄目そうです。
難しいことではないのに、数年も書いたままのものが結構あったのです。


実現するために時間がどのくらいかかるのか、お金はどのくらいかかるのか、何をしたらいいのか、具体的にして動こうと思います。


願望が決断になった時に未来が動き始めるのだとどこかで見ました。


どんな些細なことでも、自分のやりたいことを叶えるのは、人生の醍醐味のような気がします。


ひとつひとつ叶えて味わってみよう。

ご飯と無常

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ご飯は、毎回少しだけ炊き上がりが違う。
毎回同じ手順を踏んでいるはずなのだけど、気候の違いなのか、水の量の違いなのか、研ぎ方の違いなのか、米のちょっとした量の違いなのか。
今日のご飯がとても上手に炊き上がったのを見ながら、なんだかふと、私は毎回同じ手順を踏んでいるけれど、目の前のもの(お米)の状態は毎回違うんだよね、ということを考えていた。


毎日同じように見えるものも、微細に変化を続けている。
人間も動物も植物も、生きているものだけでなく無生物も。
細胞は生まれ変わり、新陳代謝をし、ゆっくりと朽ちていく。
道具も、古くなっていく。
生も死も、特別なことではなく大きな循環の一つだ。
自分も、目の前にいる人も、昨日とは違う。
昨日と同じ明日が続くなんていうのは、幻想だ。

世界は無常なのだ。
日々変化して行く過程の中で「今」があって、それは、自分を含むあらゆるものの無数の動きが交わった「今」という点だ。私たちが体験している「今」は、奇跡のような瞬間だ。
その「今」に対する敬意と、自分と交わったものへの敬意を忘れてはいけないな、と思ったのでした。


きっと当たり前のことなんて何一つない。
変わらないものなんてないから、大切なものは、人も道具も、人との関係も、自分も、手入れし、耕し、育てていかなければならない。


ご飯から壮大な話になってしまった。(あまりの話の飛びように誰もついて来れていないような気がする)


生活の一つ一つが、世の中の理の縮図になっていると感じている。
毎回同じように美味しいご飯を炊ける人は、「今」に合わせて変化を加えている人だ。


暮らしというのは、侮れない。

子供だった頃の世界

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両親がずっと共働きだったので、私は1歳頃からずっと日中は預けられて育ってきた。


保育園に入る前は近所のお宅、保育園からは近くの母の実家。
近所のお宅でも母の実家でも庭があり、大抵はそこで日がな遊んでいた。


所々に置かれている岩の感触、苔の色、様々な植物や土の匂い、動物や虫の動き、啼く声、もう動かなくなっていた姿、日の光や日陰の陰影、風の向く先、どうやってうまく木に登るか、色とりどりの草花。


家の中で人形やおもちゃで遊ぶこともあったし、家にある同じ本を延々と繰り返し繰り返し読むことも多かったが、子供時代の遊びは主に外の風景で彩られている。


綺麗も汚いも良いも悪いもなく、目の前にあるものをそのまま触り、嗅ぎ、見ていた。


退屈だと思ったことも、母と離れて寂しいと思ったこともない。それくらい幼少時代の私にとって、世界は刺激で満ち溢れていた。


長じて大人になり、行動範囲は広く、知識も増えたけれど、あの頃と同じように世界を楽しめているかと言われると、残念ながらそうではない。
危険や不安を予測して、あえてやらないことも増えた。
心配事で頭の中が占められていることもある。
それらが全て大人になって得た悪い習慣だと思っているわけではない。


それでも、あの頃見えていた世界の鮮やかさを追いかけるような気持ちで生きていけたらいいなと思う。


目標は外にはなく、すでに自分の中にあったのだ。