白い猫の来た道

日々つれづれ

わからないということ

f:id:nekomaru44:20180513133225j:image

Twitterをしていて楽しいことのひとつに、普段は知り得ないはずの人の呟きを見ることにある。

 

海外に住む人、地方で子育てをする人、大都市で働く人。

年齢も、住む場所も、収入も、幸せも、抱えている悩みも、全くバラバラの人たち。

 

どこまで本当で、どこまで嘘かはわからない、SNS上に流れる膨大な言葉の連なり。

統一されたフォントで並ぶ言葉からは、不思議と多種多様な手触りが伝わってくる。

 

書かれている内容は理解できることもできないこともあって、感動したり嫌悪することも混ざっていて、そのごちゃまぜの感じが面白くて、Twitterを何年も気ままに眺めている。

 

いつ思うのは、「人は、私が想像も及ばない世界を内包している」ということ。

 

人は他人のことを自分が見える範囲で判断してしまいやすい。

この人はああいう人。あの人はこういう人。

勝手にラベルを貼って、項目分けをする。

 

でも、人間はそんなにシンプルな作りをしていない。

 

いつも元気なあの人が、実は何年も大きな病と闘っている。

言葉のキツイあの人が、実は誰よりも繊細だったり。

 

優しさも残酷さも、光の当たり具合によって、その日の気分の違いによってさえ、出方が違う。

多面的で、多層的で、奥行きがある。

 

目の前の人の、私が見えている部分はほんの少しの部分である、という事実を、心のどこかに持っていなければいけないと常に思う。

近しい人であっても、全てを理解できるわけではない。

 

見えていない部分への想像力。

わからない余白があるということ。

 

「わからない」ということはとても大切だ。

自分の想像が及ばない世界があるという事実を知ることは、謙虚さに繋がる。

謙虚さは、敬意を生む。

 

想像力と敬意。

それが、人と付き合うときに大切にすべきことだと思う。