白い猫の来た道

日々つれづれ

年の初めに

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年末、部屋で盛大に転んだ。

 

食べ終えた食器をキッチンに運ぼうと両手がふさがっていて為すすべなく、自分史上最高に見事な転び方をしたように思う。
転んだときに強く頭を打った。
幸い脳震盪を起こすこともなくその後は普通に動けたものの、頭の打撲はすぐに症状が出ないこともある。
ネットであれこれ調べ、ひとまず経過観察することにした。

 

突然だが、私はかなりネガティブ妄想の強い人間である。

ひとたび考え出すと、それはもう微に入り細に入りの悲観的予測が次々と湧き上がる。
年末年始の休みに入っており、一人暮らしで、あと数日誰かと会う予定はない。
今回もご多分に漏れず、寝ている間に意識がなくなって事切れ、死後数日たって発見されるところまで考えた。
死んだあとに見られてやばい日記などの類は年末の大掃除で処分したので、ひとまず大丈夫。
部屋は綺麗に掃除してあるから、異変に気づいた誰かに踏み込まれても大丈夫。
お葬式の連絡をどの友人にしたらいいかは、きっと家族にはわからないだろう。遠方に住んでいる人も多いし。SNSでも死んだことを投稿してほしいけれど、それもきっとわからないだろう。
何事もなく生き残ったら、そういうあれこれをまとめないといけないかもしれない。

 

そんなことをつらつら考えながら、もしこのまま意識がなくなったとして、何か後悔することはあるだろうかと思い巡らせた。
まだやりたいことはある。
けれど、今年はいろんなことを終わらせ、見送り、別れを告げたことが多くあり、ちょうど節目の端境期にいた。
私は独身で、養わなければならない子供はいない。家族の問題も、ここ数年であれこれと動き、きちんと片付けられていた。

 

強い執着を持ったやりたいこと、やるべきことが、思い浮かばなかった。

 

誰かに伝えそびれていることはあるだろうか。
それも、思い浮かばなかった。

 

私はいつも、目の前にいる人と会うのがこれで最後かもしれないという思いが頭のどこかにある。
人との縁はうつろいやすく、二度と会えないことだってありうるから。
だから、伝えたいことはいつも伝える。
それはときに唐突で、相手を面くらわせる。
でも、思っているだけでは伝わらないのだ。

 

そうやってきて、強くやりたいことが思い浮かばず、もう伝えたいことのない今の自分は、「今」を生き切るということができているのかもしれない。それはそれで、素晴らしいと思う。
でも、ふと心許ない気持ちにもなった。

 

結局のところ転んだのちに具合が悪くなることもなく、数日の間首がムチ打ちになったように痛んで終わった。
年の最後の厄落としだったのかもしれない。
年が明けて、SNSでは多くの人が昨年の振り返りと新年の抱負を投稿していた。
私も毎年そうしていたけど、今年はしない。なぜだか、わかりやすく目に見えるかたちで衆目にさらしたくなかった。
ひっそりと動き出そう。
そして今年、強い衝動に出会えたらいいなと思う。